『ル=ア=イシリウス、疾く来よ』
《神の衝立》の向こうから、巨大な瀑布の轟きのような《声》が、ゆったりと飛翔していたルーン/アイシス/シーリスに向かって降ってきた。
《声》に打たれ、くるくると回りながら落下する、ルーン/アイシス/シーリス。
『ル=ア=イシリウス、疾く来よ』
今度は、落ちて行った《声》の谺が、津波のように下から到来し、ルーン/アイシス/シーリスを空高く打ち上げた。
二度の、《声》の衝撃に目眩を起こしながら、ルーン/アイシス/シーリスは、打ち上げられた高空から《神の衝立》の先を見据えた。
《神の衝立》は幾重にも重なり合い、地平の果てまで続いていた。その果ての更に先、白い山稜と青い空が始まるところに、輝く何かがあった。あの圧倒的な《声》は、その何かが発したものだと、直感的に判った。
直視したことが判ったのか、先程よりも大きさが抑えられた《声》が訪れた。
『我、汝の在りしを嘉し、名を授けん。そして汝に請う。疾く我の許に来よ、ル=ア=イシリウス』
「ル=ア=イシリウス。私の、なまえ…」
『然り』
「貴方は…」
『我はヴォラド、汝らの神なり』
「ヴォラド!」
『疾く我の許に来よ、ル=ア=イシリウス』
「わかりました。今より、参ります」
不思議と、反発心の様なものは感じなかった。
ル=ア=イシリウスは、ヴォラドに授けられた名前を受け入れ、地平の始まる果てを目指して飛翔を開始した。
《神の衝立》の、最初の連なりの頂きを越える。初めて目にする向こう側には、故郷の国の側と変わりない樹海の風景が広がっていた。ただ、故郷とは違い、人の街や街道は、少なくとも見える範囲には無さそうだった。
二つ目、三つ目と、雪を頂く《神の衝立》の稜線を越える度に、雪の白さが山裾の方に近づいているのが判った。
進路の先に目を向けると、目的の場所らしい何かの姿が、ようやくはっきりしてきた。
自ら輝きを放つ、それは地上と天空を繋ぐ程の威容を持った、二本の結晶樹だった。
それは、異様なほど細長く、縦方向に延び出していた。普通に大地に暮らす者には、《神の衝立》が障害となって、遠望すら叶わないだろう。そして、ル=ア=イシリウスが、ある程度まで近寄って初めて識別できたのは、結晶樹の全体が白く輝き、何も知らない目には雲にしか見えない様子をしているからだった。
白さの理由は、結晶自体の色と、枝々に雪が載っているためのようだ、とル=ア=イシリウスは見て取った。もっとも、雪がある部分は、雲が出来る高度の間だけの様で、それよりも上の部分は透明度が高い感じで、目を凝らせば淡く滲んで識別できるものの、現在地より更に近づかなければ枝の判別ができない程に思える。
「何か、居る?」
結晶樹を目指して飛び続けるル=ア=イシリウスは、ちらちらと瞬く光点を、結晶樹の周囲に認めた。光点の動きは、大型の鳥のそれを思わせる、緩やかなものである。だが。
「鳥にしては大きすぎるよな…たぶん」
…竜なんだろう、と、《悪意》の樹を封印に来た竜を思い出し、ル=ア=イシリウスは、最悪の場合、戦いになることを覚悟しなければならない、と考え、気を引き締めた。
無数の竜が、舞っていた。
結晶樹は、ル=ア=イシリウスの現在の視点では、あまりに巨大過ぎ、視界の前面全部と頭上遥かまでを覆い尽くす、輝く《世界を覆う壁》とでも呼ぶしかないものとしか見えない。
その下には、人の気配が一切ない以外は、文字通りの《楽園》が広がっていた。
遠望した時に見えた、雪を頂いた辺りからだろう、張り出した枝から流れ落ちる滝が何カ所かにあり、その下に、虹をまとった水煙と湖と、それから流れ出る川が四方へと流れている。
その枝々に降り注ぐ陽光を、結晶樹は、ほとんど遮ることなく大地にまで透し、重なり合う木漏れ日が淡い影を作っている程度で、春から夏に向かう季節の状態が保たれている様子に見えた。
そして。
様々な大きさと形態の竜たちが、そこにいた。
いつの間にか、ル=ア=イシリウスは移動を止め、空中から《楽園》を眺めていた。
一瞬、頭上を影が横切る。
見上げると、翼を広げた竜が何頭か、天に広がる結晶樹の枝の下を、ゆっくりと円を描くように飛んでいた。
背後から涼やかな風が吹き、左右を通り過ぎる。ル=ア=イシリウスは、そこに含まれる《風》の力を、半ば無意識の内に芳しい匂いに似た感覚として捉えていたことに気付き、今度は意識して《風》の力を吸い込み、吐き出してみた。
目の前に、小さな《風》の渦が生まれた。
ル=ア=イシリウスは、その渦に次々と力を加え、育てていった。
ほどなく、渦は上下に延び、竜巻と呼べるほどになった。
ふと気付くと、数頭の竜がル=ア=イシリウスを取り囲んでいた。
小川のせせらぎのような、涼やかな音が響く。
それは、竜たちの羽音だった。
竜たちは、ゆっくりと竜巻に近づいてきた。ル=ア=イシリウスは、攻撃するきっかけを見出せず、身構えながら竜たちの動きを注視するしかなかった。
竜たちが、竜巻の方に両手を差し伸べた。すると、あっと言う間に竜巻の勢いが衰え、ル=ア=イシリウスは、そこに集まっていた《風》の力が四散して行くのを感じた。
竜巻が消え去ると、竜たちは羽を鳴らしながら飛び去り、その場にはル=ア=イシリウスだけが残された。
『あれらは、この地の安定の維持を使命としている。我は、そのようにあれらを造った。故に、乱れを鎮めこそすれ、争いを起こすことはない』
「ヴォラド!」
慌てて周囲を見回すが、神の姿は見当たらない。
『我は、常に汝の前に在り』
「私の前に? でも、何も…」
はっ、と顔を上げ、ル=ア=イシリウスは、視界の半分を占める結晶樹を見つめた。
「この、結晶樹が?」
『是でもあり、非でもある。汝が我を見渡したいのであれば…』
ヴォラドの言葉が止み、頭上から竜の羽音がした。見上げると、さきほどの竜たちよりもひとまわり以上は巨大な竜が、ル=ア=イシリウス目掛けて降りて来ていた。
周囲を吹き過ぎる風の音が、なぜか耳に大きく響く中、小山のような竜は、大きく目を見張って見上げているル=ア=イシリウスの方に、ゆっくりと右手を差し伸ばした。その手のひらは上に向いている。ル=ア=イシリウスは、眼前の手と頭上の竜の頭とを、何度か顔を動かして見つめ、この状況の意味を考えた。
『汝の手を重ねればよい』
ヴォラドの誘いに、ル=ア=イシリウスは右手を動かし、竜の右手の、人指し指の先に掌を当てた。その瞬間。
ル=ア=イシリウスは虚空にいた。
無限の広がりを持つが故に果てしなく透明な闇が、正面以外の全ての方向に在る。まさしく、そこは虚空の只中だった。
そして正面には《世界》が在った。
《世界》もまた、虚空に包まれていた。ル=ア=イシリウスは、《世界》の全てを視界に収めようとしたが、巨大に過ぎて叶わなかった。
『その、汝が《世界》と観るそれが、我である』
《世界》が…ヴォラド?
その疑念に応えるように、《世界》の一点に視線が向く。
向いた視線の先に、あの結晶樹があった。
《世界》の中心のような造形の、盛り上がった大地の頂点から、二本の結晶樹は虚空に向かって伸びている。それは。
「角の、ような…」
そして大地は、竜の頭部のような。
そこを取り巻く、何重にも重なった《神の衝立》の稜線は、竜の翼のような。
《世界》は、岩と土を身にまとう、身体を丸めた一頭の竜のような。
『然り』
言葉もなく、ル=ア=イシリウスは《世界》を…神を見つめた。
『世界を創らんと務めしも、気付けば既に余力なく、我は自らを地に擬して、命の座と成すことを選んだ。その時より我は、命たちの全てを、この身の裡で観照してきた…このように』
その言葉と同時に、ル=ア=イシリウスの中に、《世界》の全てが流れ込んだ。
吹きゆく風、流れる水、変転する大地。その中に在る全ての命の全ての有り様が、痛みも喜びもそのままに、体感された。
まるごとの《世界》を受け止めることが出来るはずもなく、ル=ア=イシリウスは押し寄せる《世界》に翻弄されるしかなかった。
幸い、《世界》の奔流は刹那で止まった。
ル=ア=イシリウスは、《世界》との接触が切れる直前に、一つの光景を見た。
それは、ルーンとアイシスが生まれ育った街で、怪物に襲われ、絶望的な抵抗をしているオーデたちの姿だった。
《世界》との接触に激しく消耗しているル=ア=イシリウスだったが、痺れたように感覚のなくなった身体を、なんとか動かそうとした。
『助けに行くか?』
霞んだ目を無理に開く。
正面に遠く、二本の結晶樹の姿が見えた。
『汝の為すべきことを成すがよい』
その言葉が終わると同時に、身体の中から《力》が湧きだした。
そしてル=ア=イシリウスは、その内から湧きだす《力》が、ヴォラドから来ているものであることを感じた。
「ヴォラド?」
『汝の為すべきことを成すがよい』
そこには、突き放した冷徹さと、《世界》を包む虚空にも似た底無しの諦念と、それ故の全てへの慈しみがある、と、ル=ア=イシリウスは思った。
体内に満ちた竜の《力》を解放する。
結晶樹にも似た、数多の枝を広げたような巨大な翼が、巨竜となったル=ア=イシリウスの背から伸び広がった。
つづく