《地の竜》の《力》を吸収するルーンの身体が、無数の結晶が触れ合っているような音を響かせながら、ルーンとは違う形に変形してゆく。
その下半身は、《地の竜》の身体と融合していた。
そして上半身は、結晶質の鱗のようなものに包まれながら、内側から脹れ上がり、巨大化してゆく。
その形は、いつしかシーリスの容姿へと変化していた。
巨大化は、《地の竜》と同程度の高さになったところで止まった。その下半身は、首を失った《地の竜》の胴体と繋がり、結晶質の鎧に包まれた上体を空中に持ち上げ、危なげなく支えていた。
周囲をゆっくりと見回していたシーリスの頭部が、突然、上方へと向けられる。その視線の先には、暗い灰色の天空を背景に、気流の中を遊弋する《風の竜》の姿があった。
《風の竜》を見つめるシーリスの顔が歪んでゆく。その表情は、強烈な敵意の現れだった。
口が大きく開かれ、そこから、周囲の崖を震わせるほどの叫びが発せられる。
その叫びと同時に、シーリスの全身に、再び変容が起きた。口から牙が、頭部から角が、四肢のそこここから刺が、次々と伸び出る。
狂気が生み出した凶器を象徴する意匠を身に纏った巨大なシーリスが、再度、《風の竜》に向かって叫び声を轟かせた。
すると今度は、シーリスが融合した《地の竜》の身体の、小山のように盛り上がった背部のあちこちが盛り上がる。
その盛り上がりは、次の瞬間、巨大な石つぶてとなって、《風の竜》へと撃ち出された。うなりを上げて飛翔した岩塊は、その幾つかが《風の竜》の身体に当たり…突き抜けた。
岩塊が突破した跡は、少しの間だけ乱れていたが、すぐに元通りになった。
攻撃を平然と受け止めた《風の竜》に、しかしシーリスは、岩塊の射出を続けた。
頭部付近に向かった岩塊を、《風の竜》が身体を動かして回避したのを目にしたシーリスは、その部位を取り囲むように岩塊を撃ち上げ、《風の竜》は、空中の一点に止まらざるを得ないようになった。
《風の竜》は、上昇しようとした。が、上空には、それまでシーリスが撃ち上げた岩塊がひとかたまりになっていて、《風の竜》の移動を阻んだ。
岩塊の下面に張り付いた格好で、《風の竜》は、直下で身構えたシーリスに向かって降下していった。
「…起きて。ねえ、ルーン、起きて!」
一番身近な存在の、不安げな声を耳にして、ルーンは、はっ、と目を開けた。
「アイシス?」
眼前に、逆さまに覗き込むアイシスの顔があった。ルーンは、アイシスに膝枕をされた状態で仰向けに横たわっていた。
上体を起したルーンは身体を回し、アイシスと向かい合った。
「よかった。ずっと眠ったままだったら、どうしようかと思っちゃった。」
そっと、右手を涙ぐむアイシスの頭に乗せるルーン。その仕草に、嬉しそうな顔をするアイシス。
(そういえば、泣いてるアイシスの頭を、こうやって撫でて慰めることって、久しぶりだな)
そんなことを思いながら、アイシスの様子を見ていたルーンは、ふと違和感を感じ、その原因に気付いて驚いた。
アイシスの見た目が、いつの間にか幼くなっている。
「アイシス!」
「え、なに?」
ルーンの声の調子に驚き、顔を上げたアイシスの見かけは、その一瞬で元に戻った。
「あ…」
何と言って尋ねればいいのか、言葉に詰まって口ごもるルーンを、アイシスは神妙な顔つきで見つめ返した。
その表情に、ルーンは眼前のアイシスが本人である事を確信し、安心する…と同時に、幾つもの疑問が頭の中に湧き出した。
「何があったんだ? 身体とか大丈夫なの? そうだ、あのシーリスって」
アイシスがルーンの口を両手で塞いだ。そして、軽く息を吸い込む仕草をすると、口を開いた。
「お師匠様〜!」
「やれやれ、ようやく出番かね」
それは、ルーンとオーデの結晶細工の師匠の声だった。
ルーンが声のした方へ顔を向けると、師匠の首から上だけが中空に浮かんでいた。
硬直したルーンの眼前に、よく見知った右の掌が出現した。それは、何も無い場所に唐突に湧き出たとしかルーンには見えなかった。
その掌は、結晶細工の師匠のものだった。
そして、師匠の右手はルーンの顔に近づき、そのまま何の抵抗感も違和感もなく、ルーンの額の中に入り込んだ。
多量の岩塊の落下は、断崖に響き渡る轟音と激しい震動と夥しい粉塵とを生み出した。
残響と揺れと土煙が収まると、落下した岩塊の中心に、一体の《竜》の姿があった。
その《竜》…巨大化したシーリスの、牙の生えた口には、ヴォラダイトの結晶が咥えられていた。結晶の周囲に、淡く半透明になった《風の竜》の姿が見える。
《風の竜》のヴォラダイトをシーリスの牙が噛み砕き、一気に飲み込んだ。
すると、シーリスの身体が、再度の変容を始めた。
明らかに《風の竜》の身体にあった特徴を有する新たな部位が、シーリスの巨体のあちこちに出現していった。
変身を終えたシーリスは、新たな能力を試すかのように、音もなく空中に浮かび上がった。その視線は、断崖に囲まれた亀裂の、闇に隠れた中心へと向けられている。
シーリスの口から、音にならない音が発せられた。
その《音にならない音》は、しかし圧倒的な《力》を伴い、シーリスの周囲に、水面に石を落とした時に生まれる波紋の様に、亀裂の中に広がって行った。
《音にならない音》が通過した場所は、鋭い刃物に当たった時のように斬り飛ばされ、滑らかな切断面を見せた。当然、近くの断崖には、深い亀裂が水平に走り、岩や結晶の枝の破片がこぼれ落ちていた。
やがて、闇を見つめるシーリスの視線の先に、ぽつり、と光が灯った。
それを認めたシーリスは、光に向かって空中を走り始めた。
数多の[他人の記憶]がルーンの中に、付随する感情と知識と共に流れ込んで来た。
渓谷を滑落する狩人。
朝もやの残る谷底。岩の間から、一抱え程もあるヴォラダイトが、枯木の様に露出している。
狩人は、結晶の枝の上に落ち、腹部を貫かれて絶命する。
殺し合う、森の住民たち。
傷ついた一人が、水を求めて谷底に辿り着き、結晶の枝の根元で息絶える。
全身の傷から血を流しながら逃げてくる兵士。
それを追って来る、同様の姿の敵。
結晶の枝の近くで、二人は互いに刃を揮い、やがて二人ともに倒れ伏す。
事故で。諍いで。戦争で。
結晶の枝の周囲に、人の死が積み重なって行く。
悔恨。
憤怒。
憎悪。
ヴォラダイトの枝は、人々の血肉に混ざっていた強烈な想いを、吸収し、溜め込んでしまう。
人の、死に際して残った想いには、愛も赦しも肯定もあった。それら敬虔な/静謐な想いは、穏やかに枝先から昇華し、あるいは、静かに沈んで鉱脈の深淵へと飲み込まれる。しかし、憎悪や拒絶や否定の想いは、その場に止まり、激しく沸き立ち治まる事はなかった。
やがて、結晶の中に溜まった想いは混ざり合い、ひとつの意思が生まれる。
世界を憎み、拒み、滅びへ向かおうとする悪意が。
生じた《悪意》は、その意思を周囲に振り撒き始めた。
《悪意》に触れたものは、毒に犯されるように変質し、それ自身が《悪意》に染まった。《悪意》に染まったものは、酸のように周囲を浸蝕し、変質を促し、崩壊させていった。
こうして、《悪意》は密やかに、しかし確実に拡がって《力》を増していった。
ある日、王の巡視隊が近くを通りかかり、《悪意》は、水の補給に谷に降りた兵士の一人を使嗾者に変えた。
《悪意》の傀儡と化した兵士は、次々と仲間を増やし、ほどなく、王を含めた全員が《悪意》に染まった。
一度に多数の《人の意志》を飲み込んだ故か、《悪意》の枝は急速に巨大化した。巨木と呼べるほどの大きさになった《悪意》の、その枝の先端は、それまでに飲み込んだ生き物たちの姿を象っていた。
同時に、大きくなった樹を支える様に広がった根の途中に、瘤のような膨らみが出来、その瘤の中から《怪物》たちが次々に生まれ始めた。
生み出された《怪物》たちの一部は、外見を王の一行へと変化させると、帰還の途についた。
離宮の造営という名目で集められた人々もまた、《怪物》が化けた者たちによって、折りを見ては《悪意》の樹に飲み込まれていった。
離宮が一応の完成を見た時、《神の衝立》を越えて四頭の竜が現れた。空を飛んできた竜たちは、《悪意》の樹を取り囲むように降り立つと、四種の《力》を使って《封印》を行った。
《風の竜》が各々の竜の《力》を切り分ける不可視の壁を巡らせながら、《水の竜》が《悪意》の樹を氷結させ、《火の竜》が炎で取り囲み、《土の竜》が全てを埋めた。
そして最後に、《悪意》の樹を中心とした世界が、竜の四種の《力》で封印された。
《怪物》が化けた兵士たちは、そのまま活動を続け、人々を《悪意》の樹の元に連行した。
人々は、風と土と火と水の《力》に傷つき、苦しみながら《悪意》の樹に飲み込まれてゆく。
竜たちは、その行為を止めようとはしなかった。
つづく