果ての谷 始まりの地 〜ガラン異聞〜 
《イシリウスの章》#1 / #2 / #3 / #4 / #5 / #6 / #7 / #8 / #9 / #10[完結]  [上]に戻る

 先に口を開いたのはシーリスだった。天井近くからルーンを見下ろしながら軽く肩をすくめ、話し始める。
「改めて…初めまして、ルーン。私はシーリス。アイシスに、あなたの手助けをするよう頼まれたの…ということで、よろしくね」
 ルーンは、何度か口を開いては閉じたが、意味のある言葉を組み立てることが出来ずにいた。
「こんらん、してる?」
 シーリスの問いかけに、ルーンはぎくしゃくと頷く。ふうっ、と息を吐き、シーリスはルーンの眼前へと高度を落とした。
「ここを中心に、目に見えない《壁》が出来ていて、それが、だんだんと小さくなっていることは、知ってるよね」
 頷きで肯定を示すルーン。
「《壁》が縮み切ったら、どうなると思う?」
「どう、って…」
「《壁》の中にある、すべてのものは、潰されて、壊れて、消えてしまうの」
「…」
「後に残るのは、何もない大地だけ…貴方は、それを防ぐ為に、戦わなくちゃいけない、ということ。そして私は、その手伝いを、アイシスから頼まれたの」
「戦うって、今の奴みたいなのと?」
 意識して軽い口調で訊ねるルーンに、シーリスは真顔で応じた。
「《壁》を造ったのは、四頭の《竜》。そいつらを全部倒せば、《壁》は消えるわ」
「竜?」
「神に、最も近いもの。神の如き力を持った、神ではない生き物、かな」

「そんな…なんで、そんなものが、この国を跡形もなく消そうとするんだ?」
 強大な力を持った存在による理解不能な行動に理不尽さを覚え、ルーンの声に怒りが滲む。
「さあね。《竜》自身に訊いてみる? 答えてくれるとは思わないけど」
 ルーンの憤りをはぐらかすように、素っ気なくシーリスが言う。
「とにかく」
シーリスは口調を改めて、ルーンを見つめながら、
「ここで話し込んでいても、何も変わらない。ルーン、あなたは、《竜》と戦う? 戦わない?」
と、問いかけた。
「戦う」
 ルーンは即答する。
「僕の力で、そんな《竜》をどうにかできるか、判らないけど」
 そう言ったルーンに、シーリスは、にっこりと笑って言った。
「そのために、私がいるの…じゃあ、《竜》退治に行きましょうか」

 シーリスは洞窟の奥を示し、空中で高度を保ったまま、ルーンを促すように動き出した。ルーンは、その後を追い、闇の中を進んで行った。

 二人が去った後。
 洞窟の地面に、斜めに露出しているヴォラダイトの鉱脈から、硬質の《芽》が吹き出した。
 その《芽》は、鉱脈の中にある《種》から伸び出していた。
 淡く発光する鉱脈から生え伸びた《芽》は、やがて、ルーンに襲いかかったものへと形を変え、新たな獲物を待つ気配を、周囲に漂わせるのだった。

「あ、あれだわ」
 流水や地面の起伏に足を取られない様に注意しながら歩いていたルーンは、シーリスが指差した先に目を向けた。
 洞窟の天井に穴が開いていて、そこから一本の綱が垂れ下がっている。その綱の下端には、木製の桶が繋がれていた。
「…井戸?」
「そういうこと。さ、上って」
 シーリスに促され、ルーンは綱に手をかけると、天井の暗い穴を見上げた。
「この先に《竜》が?」
「まさか」
 ルーンの問いに、シーリスは否定の身振りを交えながら答えた。
「今の貴方、《竜》と戦う格好だと思う? 私としては、せめて鎧くらいは着けて欲しいの。上の離宮でなら、それくらいは見つかるでしょ?」
「…判った」
 綱を両手に握って体重を掛け、しっかりと固定されていることを確認すると、ルーンは井戸を上り始めた。

 井戸は、洞窟から続く箇所こそ粗く削られた岩壁が露出していたが、途中からは四角い形に整形された硬い石を積み重ねた内張りがされていて、その所々が出っ張っていたので手掛かりや足掛かりには事欠かず、ルーンは、さほど苦労することもなく上り切ることができた。
 井戸の出口は、大人の腰くらいの高さまである木の枠で囲まれていた。その上に、やはり木を組み合わせた櫓が差し掛けられて板張りの屋根が葺かれ、その梁から井戸へと綱が下ろされている。
 ルーンは、井戸を囲む木枠の内側に張り付くようにして、周囲の気配を探った。
「誰も、何もいないみたい」
 木枠の淵から、慎重に頭を出そうとしたルーンの頭頂部を、そう言ったシーリスの尾の先がつついた。
 手を振って尾を払い退け、ルーンは無言で立ち上がると木枠を乗り越えた。

 そこは、四方を高い壁に囲まれた中庭のような場所だった。ルーンが出て来た井戸の付近は剥き出しの土だったが、井戸を取り巻くようにして石で葺かれた通路があり、ルーンから見て左右の壁にある扉へと続いていた。
「どっちへ行く?」
 と、シーリス。
「え?」
 てっきり案内役だと思っていたシーリスに尋ねられ、ルーンは絶句した。
「どっち、って、僕に分かるわけないだろ」
「…なるほど。で、どっちにする?」
 どうやら少なくとも今は、シーリスは案内役をする意思は無いらしい。この問いかけを、そう解釈したルーンは、中庭全体に視線を巡らせながら黙考していたが、ほどなく右腕を伸ばして一方の扉を示し、歩き出した。
「そっちにしたのは、何故?」
 ルーンの肩口に寄り添うように空中を移動しながら、シーリスが尋ねた。
「あっちの扉は、多分、離宮の内側…厨房とかに続いてる、と思う。いま通って来た井戸の底の洞窟って、入り口があっちの方だったろう?」
「ふむ」
「鎧とかは、兵士たちの使う、離宮の外回りの部屋にあるんじゃないかな、と」
「ん、判った」
 そう言うと、シーリスは移動速度を上げて扉に張り付き、耳を澄ませるようなしぐさをすると、ルーンに顔をむけた。
「大丈夫。この向こうは、なんの気配もしないわ」
「ありがと」
 シーリスと入れ代わりに扉の前に立ったルーンは、取っ手に指を掛けると、音を立てないように扉を開けた。頭だけを内側に入れて様子を窺うが、人が居る気配は無かった。ルーンは、身振りでシーリスに中に入るように促し、シーリスに続いて扉を通った。
 そこは通用路らしく、床は板張りで、扉の傍らの、飾り気のない壁には、火の点いた松明があった。その灯に照らされたルーンとシーリスの影が、灰色の壁に揺れる。
 通路の奥に視線を向けると、入って来た扉がある壁とは反対側の壁に、いくつか扉があるのが判った。
「一つ一つ部屋を調べてゆくしかない、な」
 溜め息混じりにルーンは呟く。
「そうね」
 他人事のような口調で応えながら通路を見回すシーリスに、ルーンは何か辛辣な言葉をぶつけたかったが、適当な文句は浮かんでこなかった。
「…じゃあ、あそこから始めよう」
 そうシーリスに告げ、ルーンは一番近い扉に向かった。

 慎重な歩みでルーンが扉に近づくと、扉に耳を押し当てて内部の様子を窺っていたシーリスが顔を上げて頷き、室内には何の気配もしないことをルーンに知らせた。ルーンは扉に手を掛けて、ゆっくりと手前に引いた。
 扉は、僅かに軋みながら開き、ルーンの目に部屋の中を晒していった。
 ルーンは、部屋の中に異様なものを見た。
「なんで、ここまで…」
 崖の中腹や井戸の底の洞窟でも目にした、結晶で出来た枝が奥の床から生え出て、部屋の天井を突き破るように伸びていた。
 唖然としつつ、ルーンは部屋の中に踏み込み、結晶の枝に近づいた。
 その枝の内部に、結晶とは違うものがあることにルーンは気付いた。と同時に、それを内包する部分が発光しながら陽炎のように揺らぎ、次の瞬間、ルーンの眼前に、人の形をしたものが出現していた。
 乾いた、軽さと硬さを連想させる音を、ルーンは耳にした、と思った。
 それは、骨だけで人の形を成した化物だった。
 化物の右腕が持ち上がる。腕の先には、鈍く光る諸刃の剣が握られていた。
 人骨の化物の持つ剣が、風を斬る音と共に、ルーンの肩口に振り下ろされた。

 重い衝撃を左の肩口に感じて、そこに視線を向けたルーンは、化物の剣が肩の骨に食い込んでいることに気付いた。
 化物の、剣を持つ手が動き、肩に食い込んだ刃が捻られて、傷口を左右に押し広げながら引き抜かれる。
 そしてまた、化物の剣が持ち上がり、振り下ろされた。
 無意識の内にルーンの右手が動き、肩の傷を押えようとした。
 化物の二撃めは、その右手の甲を断ち割り、左肩を分断して、右腕の骨に挟まれるような形で止まった。
 再度、化物が剣を引く。
 剣が食い込んだルーンの右腕も化物の方に引かれて、ルーンは虚ろな眼窩を間近に見る格好で、人骨の化物に密着した。

 傷ついた肩と腕の、圧倒的な灼熱感を持った痛みと、そこ以外の全身から湧き上がる、底なしの悪寒を伴った脱力感に、ルーンの意識は朦朧となった。
 その、ぼやけた視界の中にルーンは、結晶の枝に向かって空中を突進する影を見た。
 (…シーリス?)
 涼やかな、結晶が砕ける音が響き、ルーンの身体は、不意に支えを失った。
 自分の身体が、力なく床に崩れ落ちて行くのを微かに感じながら、ルーンは意識を失った。

                                   つづく

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