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東の地平から西の地平まで、延々と聳える《神の衝立》山脈。
北方の空を隠している峰の連なりは常に雪をいただき、日の出から日の入りまで純白に輝いている。
裾野に広がる大森林は、その中に多数の河川や湖水を有し、エルフたちを含む、生きとし生ける物すべてにとっての「故郷」と呼ばれている。
王の離宮は、その大森林を分断するようにして存在する、底の知れない地割れの縁に在った。
轟々と響く水音が、王の離宮に近づくに従って、大きくなってくる。
森の暗がりが途切れ、ルーンの眼前に、巨大な地割れと、その縁に建つ、白を基調とした王の離宮が現れた。
ルーンは、森が終わる寸前にある一本の木の影に隠れるようにして、離宮を見つめた。
離宮の背後は断崖になっている。そこからは、白い霧のようなものが湧き上がっていた。轟く水音も、その断崖から響いているのが判った。
西に傾き始めた陽の光が、白い霧の手前に七色の弧を浮かび上がらせている。
(…滝が、あるんだ)
虹の橋に飾られた白亜の離宮。幻想的と言える光景だったが、ルーンには、その美しさを鑑賞する余裕は無かった。
「アイシス…」
上着の内懐から、ルーンは二振りの小さな剣を取り出した。
一本は、結晶細工師の見習いになって初めて自分の力で作ったもの。もう一本は、その小剣を見たアイシスの[要求]に逆らえず、誰にも知られないようにして、ルーンの指導でアイシスが作ったものだった。
結晶細工には特殊な才能が必要だ、とルーンの師匠は最初に言った。
「素材である結晶に働きかけて、その形を、細工師が望む方向へと導いてゆく才能が、な」
二振りの小剣を見比べる限り、ルーンにはアイシスの方が、自分よりも才能があるように思えてならなかった。
(夜になったら…)
離宮に忍び込もう、と考えながら、ルーンは二振りの小剣を懐にしまいこんだ。そして、薄暗い森の中に移動すると、適当な木の根元に腰を下ろし、夜を待った。
《壁》が出現してから、夜の天空には月も星も見えなくなっていた。その代わり、夜空全体が微かに明るく、地上を暗い灰色の世界として浮かび上がらせた。
ルーンは、その明るさを頼りに、森の中を通って、離宮の横手へと回り込んだ。
離宮に近づくにつれて、滝の音は大きく、水の匂いが強くなり、空気は湿り気を増してゆく。
(!)
不意に、霧雨のような水気を帯びた風が、正面から吹いてきた。思わず立ち止まったルーンの足下から少し先のところで、唐突に地面が終わっていた。
ルーンは慎重に歩を進めると、巨大な亀裂を覗き込んだ。
底知れない、闇色の奈落が、眼下にあった。
崖に沿って視線を巡らせたルーンは、異様なものを、亀裂の壁面に見つけた。
それは、壁面に半ば埋もれた、自身が淡く発光している結晶で出来た、巨大な樹木のようなものだった。
光る結晶の枝は、視界の届く限りの壁面に埋まっていることが見て取れた。壁のあちこちから、枝を伝って湧き出し合流した水が滝となり、奈落の底へと落ちている。
ルーンの真下にも枝があり、亀裂の内壁は、それに支えられて崩落を免れているようだった。
離宮も、その基礎の半ば以上を、結晶の枝に預けている。
ちょっとの間、ルーンは迷ったが、意を決して、眼下の枝に向かって崖を下りていった。
壁面の岩や木の根を足掛かりに、ルーンは、結晶の巨枝の上に降り立った。
(間違いなく、これはヴォラダイト、だ)
結晶細工師が細工物の原料に使う結晶を、エルフ族は、古来よりヴォラダイト…《神の石》と呼んでいた。
(こんなところに、こういう形で鉱脈があったなんて……でも、今は)
視線を、結晶の巨枝に沿って走らせる。その先には、結晶が放つ光に下方から照らされた離宮があった。
ルーンは、濡れた結晶の上を、離宮に向かって慎重に進み始めた。
強烈な風が、亀裂の内側を舞い狂っていた。それは、ルーンの歩行を邪魔するほどだった。
(上では、風はほとんど吹いてなかったのに…)
ルーンは、崖に密着するようにして、滑り易い結晶の上を歩き続けた。
進んでゆく先の壁面に、暗い穴が見えた。
穴の入り口は、大人が立って入れるくらいの大きさで、小川のように、奥から水が流れ出していた。水は、穴の出口にある結晶の枝を伝い、亀裂の底へと落ち消えている。
ルーンは、穴…水が掘った洞窟の前に立ち、暗い内部に目を凝らした。
(暗くて…よく見えない、な)
ここで止まっていても得るものはない。ルーンは洞窟の中へと踏み込んだ。
背中に風の音を聞きながら、何歩か洞窟の奥へと入った時、ルーンは、森の中のような、湿った植物の臭いが、前方から漂って来たのに気付いた。
その場に立ち止まり、闇の中を凝視する。
どうやら、結晶の鉱脈が露出しているらしく、目が暗さに慣れるにつれて、洞窟の奥の様子が、ぼんやりと見え始めた。
ゆらり、と動く影が、ルーンの視界を横切った。
「うわっ!」
何かがルーンに向かって突進してきた。その勢いに押されるように、ルーンは後方に跳び避けて…しりもちをついた。
その眼前で、かちん、と、硬いものが打ち合う音がして、何かは奥へと引っ込んだ。
ルーンは、一抱えもありそうな、緑色をした丸い…植物の実のような形のものを目撃した、と思った。
遅まきながら、身の危険を感じたルーンは、懐から小剣を取り出し、順手に構えると、洞窟の奥の様子を知るべく、目を凝らした。
再び、前方の暗闇の中で影が揺れた直後、暗色の塊が迫ってくるのが判った。
ルーンは、影にぶつけるように、右手の小剣を前方に突き出した。
小剣の刃先が、何か柔らかなものの中に滑り込み…唐突に、刃と同じくらいの硬度のものに当たって止まる。
次の瞬間、塊は激しく震え、その動きで、小剣が付けた傷が、更に大きく広がった。
小剣を持ったルーンの右手に、塊から吹き出した生温い液体がかかった。その液体から、湿った植物の臭いが立ち上る。
ルーンが、前方に突き出していた右手を引くと、塊は、小剣が付けた切れ目から左右に割れ落ち、動かなくなった。それは、あっという間に形を崩し、溶けるように消滅してしまった。
「ふぅ…あ」
小剣を持った右手を顔の近くに持ち上げて…そこに、塊から吹き出した液体が掛かったことを思い出した。ルーンはその場にしゃがみこんで、足下を流れる水で、小剣と右手に付いている、草を潰した時のような臭いのする液体を洗い落した。
「何だったんだ、あれ」
そう呟きながら、ルーンは、塊が消えた場所を見つめた。
「あれ?」
そこには、淡い光をまとった小さな結晶が一つ、流れる水の中に転がっていた。
洗い終わった小剣の先で、その結晶をつついてみる…特に反応はない。
「…普通の、ヴォラダイト?」
「そうだよ」
突然、頭のすぐ後ろ辺りから、甲高い声が発せられた。
「誰っ!?」
距離を取ろうと一歩前に踏み出し、同時に身体を回して真後ろを向く。が、誰もいない。
その背後から、手指三本程の太さの、硬い感じの細長い何かが、ルーンの首に巻き付いた。
「う」
「じっとして」
また、今度は左の耳元で、言葉が発せられる。
その声の位置からすれば、ほぼ密着状態のはずだが、背後に居る筈の相手の肉体を、ルーンは感じ取ることができなかった。
「…誰?」
「私はシーリス。アイシスの使い、だよ」
「アイシスの? うっ」
「きゃっ」
「んぅわ」
アイシス、という単語に反応し、ルーンは、声のした側に急いで振り向いた。すると、首に巻き付いていたものが締まり、次の瞬間、顔に何かが張り付いた。
それを左手で掴み、引き離す。
ルーンは、シーリスと名乗った存在と、至近距離での対面を果たした。
「離せ、こら!」
ルーンの手の中で暴れる、シーリスと名乗った「それ」は、小さな人の形をした上半身と、対比からすれば長大な、魚とも蛇とも言えない下半身とを持った、異形の存在だった。その身体の質感は、まぎれもなくヴォラダイトの、硬質な結晶質のものなのだが、にもかかわらず、生命力に満ちた暖かさと柔軟さも併せ持っている。
シーリスの身長(全長?)は、ルーンの肩から指先ほど。上半身と下半身との比率は1:2くらいだった。頭部の造形は、紛れもなく人のそれだったが、頭髪はなく、代わりに大きめの鱗のような、板状の結晶の重なりが、頭部から首筋を通り、背中と胴体を覆って、そのまま下半身の尾の先端まで続いている。素肌(?)は、両腕から肩にかけての部分だけが露出していた。
ルーンが掴んでいるシーリスの胴体の、ちょうど腰に当たる部分には、背中側に二枚、前側に二枚、極めて薄い、膜状の鰭の様なものが生えていた。
「離せってば!」
不意に、その膜が煌めきを帯びたかと思うと、ルーンに掴まれたまま、シーリスの身体が上に浮かんだ。
「わっ」
思わずルーンが手を離す。
シーリスは、そのまま洞窟の天井近くに滞空して…二人はお互いを見つめ合った。
つづく