果ての谷 始まりの地 〜ガラン異聞〜 
《イシリウスの章》#1 / #2 / #3 / #4 / #5 / #6 / #7 / #8 / #9 / #10[完結]  [上]に戻る

 部屋に一歩踏み込み、ルーンは凍りついたように動きを止めた。
【あら〜】
 驚きか嘆息か、よく判らない声をシーリスが漏らす。
 その部屋の中は、断崖に面した部分が、ほぼ完全に崩壊していた。外に向かって解放された、かつては壁だった部分からは、断崖の底の暗黒の奈落が見えている。
 そして。
「風が…湖みたいに」
 シーリスと一体化したルーンの目は、奈落の闇を覆うように渦巻く、蒼黒い「風の湖」を見た。さらに、その《湖》の中を、巨大ななにかが泳いでいることも判った。
「あれは?」
【…二番目に倒す予定の《竜》よ】
「二番目?」
【崖の底にいる《地の竜》を倒せば、あの《風の竜》を楽に倒せる《力》を手に入れられるの。だから、二番目】
「地と、風って」
【あと《水》と《火》と、それで四種・四頭の《竜》よ。世界を成り立たせている四種類の《力》を集めて、《竜》たちは《壁》を造ったの。それぞれの《竜》は、一種類の《力》を扱うように特殊化してる。だから、その《力》に関してだけは、ものすごく純粋で強力なの。逆に言えば、それ以外の《力》には、あまり強くはない、という訳。そして、今の私の力は、《地の竜》を倒すのが精一杯…と言うか、他の三種類の《竜》を倒すのは難しいの。だから】
 ここでシーリスは一拍置いて言葉を続けた。
【だから、あの《風の竜》は無視して、下に降りましょう。いい?】
 その口調の真摯さに、ルーンは首肯せざるを得なかった。

 《風の湖》の中を、魚影に似た姿が、圧倒的な量感を窺わせながら、ゆっくりと行き来する。
 その異様な、しかし魅了される光景から、ルーンは苦労して視線を外すと、崩壊した部屋の、断崖へと口を開いている部分に近づいた。
 断崖には、あの結晶の枝が、奈落へと続く道のように露出していた。
 ルーンは《風の竜》を一瞥すると、直下の結晶の枝に向かって身を踊らせた。

 垂直に切り立った断崖を、結晶の枝を伝って下るにつれて、闇に隠れていた底の様子が、シーリスとの一体化によって強化されたルーンの目に、だんだんと見えるようになってきた。
 断崖のあちこちから地下水が吹き出し滝となって落ちていたが、その直下にこそ水が溜まっているものの、底は滝壷から断崖の中心へと向かって下がっているらしく、水は、いく筋かの流れとなって、闇の中へと消えていた。
 そして。
【いたよ】
 シーリスの言葉に、ルーンは足を止めた。視線が動き、断崖の近く、闇が落ち掛かるぎりぎりのところに、ルーンは、岩とも土とも見える《山》のような盛り上がりを認めた。
「…動いてる」
 《地の竜》は、崖に沿ってルーンの方へと移動していた。一見、その動きは緩慢に見えたが、滝の一つの真下を通過する様子から、移動速度は人が全力疾走をする程の速さであることが判った。ルーンは、彼我の体格の絶望的な差に圧倒され、呆然と、《地の竜》の移動を眺めていた。
【ルーン! アレが近くまで来たら、飛び乗るのよ!】
 その声に、ルーンは自失から覚めた。
「飛び乗って…それで、どうすれば、あんな化物を倒せる?」
【《竜》の身体にはね、致命的な場所が一つ、あるの】
「致命的?」
【そう。《竜》の首の後ろ側、頭との境目あたり。そこを、剣でもなんでもいいわ、ちょっとでも傷つけることが出来れば、それで《竜》は、絶命する】

 《竜》の接近につれて、ルーンの周囲は、立っているのが難しいほどに揺れ始めた。
「山じゃないか、本当に」
 《竜》の、半球形に盛り上がった背中が移動に伴って上下に動き、その動きが、そのまま振動となって断崖を揺るがす。歩く岩山としか言い様のない《地の竜》の背中から視線を下げてゆくと、小さな民家なら数軒まとめて踏みつぶすことができそうな太さの脚が見えた。そのまま視線を《竜》の前面へと移す。巨体に比べると小さ過ぎる感じの頭部が、なんとか判別できた。
「首は?」
【…近くまで行けば判るわよ。きっと】
「そう」
 ルーンは膝をついて姿勢を低くし、飛び移る機会をうかがう態勢に入った。

「!!」
 今、と思った瞬間、ルーンの身体は、下を通り過ぎる《地の竜》の背中を目がけて、空中に飛び出していた。気合いを入れるために叫んだ声は、振動と騒音に紛れて、自分自身の耳にも届かなかった。
 浮遊感は一瞬で、すぐに、思った以上に速い落下が始まった。《地の竜》の背中が急激に迫る。
 ルーンは両手両足に力を込めて、到着に備えた。
「?」
 不意に、《地の竜》の背中の接近が停まり、遠ざかる…と見えた次の瞬間、それまで以上の速さで《地の竜》の背中がせり上がった。
 この不測の事態に、衝撃を和らげる暇もなく、ルーンは体の前面を思い切り《地の竜》の背中に打ち当てる仕儀となった。
 強い衝撃と痛み。ちょっとした浮遊感。
 やや強めの衝撃と痛み。短い浮遊感。
 少し弱くなった衝撃と痛み。一瞬の浮遊感。
(…くっ!)
 最初の激しい衝撃に、ルーンは一瞬だが気絶に近い状態に陥った。が、続く衝撃と浮遊感の繰り返しに、なんとか意識を取り戻し、ルーンは《地の竜》の背中にしがみつこうとした。
 二、三度、手指や足に、岩のような感触の《地の竜》の表面を引っ掻き、突き当たる感触を感じた後、ようやくルーンの手が《地の竜》の背中を掴み、足先も窪みを捕えた。
 規則的に上下に揺れる《地の竜》の背中に張り付き、ルーンは短く息を吐き出した。
【…気を付けて、ね】
「・・・次からは、ちゃんとできるさ。たぶん…」
【はいはい…たぶん、ね】
 明らかに揶揄っているのが判るシーリスの口調に閉口しながら、ルーンは上体を起こそうとして…体に力が入らないことに気付いた。
「シーリス…なにか、だるいよ」
【えっ? あ、まずいわルーン。早くコイツを倒さないと、私たち動けなくなって死んじゃうよ!】
「…何で?」
【説明はあと! さぁ、立って! 動いて!!】
 このやりとりの間にも脱力感は増していた。ルーンは、その場に横たわりたい気持ちを抑え、力が入らない手足を叱咤しながら、揺れる《地の竜》の背中に片ひざを突く形で、なんとか体を起した。
「首は…」
【こっちの、真下!】
 視線がシーリスの誘導で移動する。体が向いている方向から、すこし右に寄ったあたり。
「よしっ!」
 立てた膝に左手を乗せ、思い切り押し付けるように力を込めて、ルーンは腰を上げた。
 同時に、右腕に戦う意思を込め、鎧から剣を伸び出させる。
 そして一歩踏み出し…揺れと脱力感に足を取られて、ルーンは頭から前のめりに転んでしまった。
【何やってるの〜!】
 呆れたようなシーリスの叫び。
 文字通り、坂を転げ落ちる石の様に、ルーンは《地の竜》の背中を前転しながら落ちて行く。
【っ!!】
 普通に座った状態になった一瞬を見計らい、前転するルーンの体をシーリスが操って、落ちる向きを修正した。同時に前転も止まり、ルーンの体は《地の竜》の背中を、足を先にして滑り落ちる態勢になる。
 《地の竜》の背中の傾きは、落ちるにつれて急になっていて、前転を止めた時には、坂というより崖に近い状態になっていた。
【あそこっ!!】
 シーリスが視線を操って示した先に、《地の竜》の首があった。それは、崖から岩が突き出ている、としか形容できない、生き物とは思えないものだった。
 しかし、岩で出来ている様な首は、移動による振動とは違う動きで、ゆっくりと上下左右に揺れているのが判る。その動きは確かに、《地の竜》が生き物であることを示すものだった。
 そして首の付け根には、岩とは明らかに質感が違う部分があった。
 鋭く滑らかな平面と稜線で構成されている、内部から淡く輝く、一抱えほどもありそうな巨大な結晶体。
(ヴォラダイト!)
【あれが弱点よ、ルーン】
「ん」
 落下中も続いている脱力感に、ルーンの返事は短く、やや弱々しい。
【ちゃんと仕留めないと、後はないからね】
 みるみる近づいてくる《地の竜》の首。その付け根に輝くヴォラダイト。
「判った」
 そう言うと、ルーンは滑り落ちている《地の竜》の背中を蹴り、眼下の弱点に向かって右手の剣を突き出すように、飛び出した。

 剣先は、抵抗らしい抵抗もなく、《地の竜》の首の付け根にある、巨大なヴォラダイトに突き立った。
 ルーンは、ヴォラダイトに差し込まれた剣先が変形してゆくことに気付いた。いつの間にか、身体の主導権はシーリスに奪われていた。
 剣先は、ヴォラダイトの内部を中心に向かって伸びて行き、止まった。
 それと同時に、《地の竜》の歩みが止まる。
 唐突に、ヴォラダイトが砕け散り、剣先…いや、ルーンの全身が、《地の竜》の内部から吹き出した、膨大な《力》を吸収し始めた。

 体内に流入してきた《力》に、ルーンの意識は押し流されていった…。

                                   つづく

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