果ての谷 始まりの地 〜ガラン異聞〜 
《イシリウスの章》#1 / #2 / #3 / #4 / #5 / #6 / #7 / #8 / #9 / #10[完結]  [上]に戻る


「お師匠様…それは、どういう意味でしょう」
 声に緊張を込めてルーンは尋ねる。
「ここは《一時保管器》だ、と私は言った…何を保管するための場所なのか、判るか? ルーン」
「…いいえ」
「ヴォラダイトは人の《想い》を取り込み、溜め込む性質を持っておる。その《想い》を生み出すものが人の本質である、と神は思われておる、らしい」
「らしい?」
「《地の竜》から聞き取った話から我々が導き出した推測なのでな」
「話を、されたのですか? 《地の竜》と」
「うむ。だが、そのことについては、また後でな」
「はい。すいません、話の腰を折ってしまいました」
「善い善い…つまりだ、ここは《悪意》に吸収された人々の《想い》から抽出された、神が思われるところの《人の本質》を、一時のあいだ溜め置く場所なのだ」
 ルーンは、師匠から視線を外し、周囲を見回した。改めて眺めると、異様な風景だった…正確には、風景が『なかった』と言うべきか。無色とも灰色とも呼べない、すぐ近くとも無限の遠方とも思える[背景]が、周囲を取り巻いている。
 しばらく周囲を眺めた後で、ルーンは師匠に顔を向ける。
「本来、ここには《人の本質》のみが置かれる。私やアイシス、ルーンといった、個々の人の要素は、ここに移される時点で取り除かれてしまう、はずだった」
「個々の、人の要素が取り除かれる?」
「そうだ。神が救おうとされたのは、《悪意》に取り込まれた一つ一つの生き物そのものではない。生き物の《本質》、と、神が見なす《もの》を、神は救うおつもりなのだ…それで救った気になる、おつもりなのだ!」
「でも、お師匠様。ここで今、こうして話し合っている僕たちは…」
「どうやら、《本質》を取り込んだ時に、除いた筈の《記憶》やら何やらが、多少なりとも混ざり込んでしまった、らしい。その《記憶》が《本質》に作用して、元の人が再現された…有る意味、影のようなもの、と言うべきなのだよ、我々は」
「影…」
「アイシスとルーン、お前たち二人は違うが、な」
「え?」
「二人とも、その《人の要素》の全てを、ここに取り込んでおる。身体さえあれば、また元通りにできるように…」
「お師匠様…」
 二人は神妙な顔で師匠を見つめる。すると師匠は口元を歪めるような笑みを浮かべて、
「それは、お前たちの《力》を得るためと、我々の計画の最終段階のため、だ。全くの善意ではないからな、気にかける必要はないぞ」
と言った。

 その時、不意に周囲の雰囲気が変わった。


 割れた結晶を次々と飲み下し、シーリスは、最後の竜の《力》を取り込んでゆく。

 《水の竜》の《力》がシーリスの中に満ちて行くにつれ、シーリスの形が変わってゆく。
 しかし、その変化は、それまでとは違っていた。
 禍々しい牙や爪や刺が、小さくなって体内に吸収されるか、その部位から抜け落ちた。全体の形も、ルーンの前に現れた時の状態へと戻ってゆく。
 復元してゆくシーリスの周囲に、四つの結晶が浮かび上がった。
 結晶は、中心に《悪意》の樹を置くようにして、正方形の四つの頂点の位置を占めた。そして、四つの頂点から、四種の《力》が放出されると、正三角形で造られた八面体の封印が、そこに出現した。

 《水の竜》が造っていた、《悪意》の樹を封じ込めた氷は、《水の竜》の結晶が砕かれたと同時に、細かな粒となり、消え去っていた。
 氷の封印が解けると、《悪意》の樹の枝々の間で、闇色の光…としか形容できないもの…が閃き、周囲に《悪意》が溢れ始めた。
 しかし、その《悪意》は、四つの結晶が生み出した八面体の封印に阻まれ、外に漏れ出ることは出来なかった。


「…どうやら、シーリスが全ての竜を倒したようだな」
 動揺する[背景]を眺めた師匠が呟く。二人に視線を戻した師匠は、アイシスに向けて、
「では、計画を進めようか」
と告げた。
「はい」
 いつの間にか、ルーンの背後に立っていたアイシスが、師匠の言葉に頷く。
 一瞬で、師匠の口が拡がり、無限の奥行きを見せる《通路》に変わった。そしてアイシスが、ルーンの背中に体当たりをして、その《通路》に向けて突き飛ばした。
「アイシス!!」
 ルーンの身体は、自分でも驚くほどに素早く動いた。あるいは、それは《一時保管器》という場所故に、師匠たちの計画を無意識の内に知り、次に起ることを察したからこそ、動き得たのだろうか。それとも、師匠たちが意図的に知らせていたのかもしれないが。
 全力でぶつかってきたアイシスを、ルーンはしっかりと捕まえた。そのまま二人で《通路》に転がり込む。
 《通路》は、二人を飲み込むと同時に閉じ、師匠の姿も消えた。


 気がつくと、ルーンとアイシスは、八面体の結界に封じられた《悪意》の樹を、空中から見下ろしていた。
 《悪意》の樹は、四つのヴォラダイトから封印の内側へ向けて放たれる四種の《力》に晒されている。《火》に焼かれ、《水》に凍り、《地》に同化され、《風》に削られる、《悪意》の樹。仮借のない抹消の過程が進み、《悪意》の樹は、その存在自体が消されつつあった。
「あ、わたしの」
 指差す先に、結晶化したアイシスの身体が見えた…のも束の間、その結晶の枝もまた、付け根の方から変色が進んでゆき、アイシスの身体もろとも、呆気なく粉々になってしまった。
「「あぁ、消えちゃった…」」
 二人は同時に、同じ言葉を口にして…ふと違和感を覚えた。

 その声は、一つの口から紡がれていた。八面体の封印を指差している腕も、一本の右腕である。
 五感を総動員したルーンとアイシスは、自分たちがシーリスの中に居ることを知った。
 さらに。
 二人は、互いの《居場所》が完全に重なっていることに気付いた。

 相手の考えが判る。片方が持っている記憶を他方が「思い出す」ことができる。二つの心が、一つに混ざってゆく。

 ルーン/アイシスは、自分たちが《自分》へと収束してゆく様を、ただ体験するしかなかった。

 統合されてゆく《自分》を眺めていたルーン/アイシスは、《自分》の中に、ルーンのものでもアイシスのものでもない《記憶》が在ることに気付いた。
 その《記憶》を「思い出す」。
 《思い出》に現れたのは、つい先ほどまでいっしょに居た、結晶細工の師匠だった。

「どうやら、二人ともシーリスの中に入ったようだな」
「お師匠様…」
「これは、私たちが拾い集めた、私たちの《記憶》だ…私の、結晶細工の術。王の、指導者としての知見。戦士の、様々な戦いの技。農民の、大地や作物への経験…《悪意》の樹に取り込まれた者たちの、生きてきた証とも言えようか」
 師匠の語る言葉に重なって、数多の人々の知識と経験の切片が、《記憶》の中から浮かび出ては沈んでいった。
「こんなに沢山、一度には無理です」
 その言葉に《思い出》の師匠は苦笑した。
「急ぐことはない。時間をかけて、正しく自分のものにしてゆけば良い」
「…はい!」
「ただし」
「はい?」
「この記憶と知識に満足して欲しくはない。これらを基に、更なる精進を怠らず、より良いものを目指して欲しい」
「はい」
「ま、気楽にやればよいから、の」
 そう言い残すと、《思い出》の師匠は姿を消した。後には、ヴォラダイトの輝きを持った《思い出》の結晶が、《自分》の中に残っていた。

 《思い出》から覚めてみると、八面体の結界の中は、僅かに粉のようなものが舞っているだけになっていた。
「取り込まれていた人たちも、消えてしまった訳か…」
 ルーンだった部分が呟く。
「それは違う……あ、違わない、かな?」
 そう、アイシスだった部分が呟きに答えた。
「《地の竜》は言ったの…《一時保管器》に集められた、神が《人の本質》と見ているものは、《悪意》の封滅後に、神の下に送られるって…でも、その《本質》には、ここにある《思い出》はなく、それは人とは言えないから」
 言葉は途切れ、ルーン/アイシスは無言で、中身の消えた八面体の結界を見つめた。

「あっ」
 それは一瞬の出来事だった。
 八面体の結界の四隅にあるヴォラダイトの結晶が、一斉に光を放ち、結界は、あっと言う間に小さくなり、消えてしまった。
「神さまのところへ、戻っていった…のかな」
 ルーン/アイシスは、何もなくなった場所に向かって呟いた。

 ふと、何かが聞こえたような気がして、ルーン/アイシスは顔を上げ、視線を巡らした。
 背後に顔を向けると、天井から幾筋かの光が降り注いでいる光景があった。
 その光景に、ルーン/アイシスは違和感を覚え、目を凝らす。
 天井から差し込む光は、やや手前に向かって傾いている。その光の柱の向こう側に、ゆっくりと動いている何かがあった。
「何?」
 じっと見つめたとたん、差し込んでいる光の一本が急に途切れ、すぐに元に戻った…いや、差し込む光の柱が増えていた。
 ルーン/アイシスの視線の先で、土と岩の巨大な塊が、ひどく緩慢な速さで落下していた。
 そして落着した岩塊は、盛大な土煙を上げる。
 視線を動かすと、周囲のいたるところに、同様の土煙が沸き上がっていた。

 その時になって、この地下全体が崩壊しつつあることを示す轟音が、全身を軋ませる程の振動を伴って、ルーン/アイシスのところまで到達した。

 はっ、と頭上を見上げたルーン/アイシスは、自分の真上に、急速に迫り来る岩塊の底面を目にした。
 圧倒的な量感を感じさせる黒々とした岩肌から目が離せない。頭の隅では「逃げないとダメだ」と思うものの、心と身体が固まってしまって動かない。
 ルーン/アイシスは、あの岩塊に自分が押しつぶされてしまうことを覚悟する以外なかった。
【そんな最期、私はイヤだよ】
 そう、《自分》の内側で声がしたかと思うと、右腕に《風の力》と《地の力》が集約し、それを頭上にかざす格好で、シーリスの身体は、すぐそこに迫っていた岩塊の底の一点に向かって突進していた。

 瞬きするほどの間、何も見えず聞こえず…ルーン/アイシスが我に返ると、落下し終わった岩塊が、激しく沸き上がる土煙と共に、粉々に割れ砕けてゆく光景を見下ろしていた。

【あーもう。惚けてないで、さっさと脱出するの!】
 その《声》は。
「シーリス!」
【感謝なら、後でた〜っぷり受け取ってあげる。だから今は、この超危険な状況を切り抜けることに専念して、お願い】
「ん」
 元気に響くシーリスの【声】に、ルーン/アイシスは短く応え、両腕に《力》を込めた…《力》の使い方は、今のシーリスの実践で体得出来ていたので。

 地下空洞の崩壊は加速度的に進行している様で、耳を聾する轟音が間断なく全身を襲い、周囲には、大きさも形も様々な岩塊が無数に落下している。

 ルーン/アイシス/シーリスは、小さな岩は《風の力》で砕いたり弾いたりし、大きなものは《地の力》ですり抜けて…岩の中を通過する速さには限界があるらしく、今のすり抜けで、高度はかなり下がっていた(このことは、シーリスからルーン/アイシスに、言葉ではない感覚として伝わった)…可能な限り真上を目指して進んで行った。

 やがて。
 身体の内側から、《力》の枯渇が近いことを知らせる警告が、体力の消耗に近い感覚として、だんだんと大きく感じられ始めた頃。
 大きな岩塊を抜けたルーン/アイシス/シーリスは、周囲から圧迫感が消えたことに気付いた。
 いつの間にか上がっていた息を整えながら見回すと、あの重苦しく天を覆っていた《壁》が消えていた。巡らせる視線の先には、濃い緑の森と、白い雲を浮かばせた青空が広がっていた。

「《壁》がない。…《悪意》の封印が、役目を終えて消えたから、か」
 ルーン/アイシス/シーリスは《自分》の中にある《記憶》を探り、納得した。
 そのまま目を閉じて、《自分》の中を探ってみたが、今の脱出行の間に、ルーンとアイシスとシーリスの《要素》は、区別がつかない程に一体化した様で、《自分》以外の何も感じられなかった。

 目を開き、真下を見る。《悪意》の樹が封印されていた地下空洞は、どうやら完全に崩れてしまったらしく、白っぽい土煙を漂わせてはいるが、割れ落ちる動きは見えなかった。
 離宮があった断崖を含む、森を分けて横たわる裂け目の壁は、地下空洞の崩壊の余波だろう、あちこちで崖崩れを起こしている。
「あのまま荒れ果てるよりは、跡形もなく消えて、すっきりしたかな…」
 そう呟く傍らを、森の匂いを乗せた風が吹き過ぎ、ルーン/アイシス/シーリスは、風が向かった方に顔を上げた。

「それじゃ《神さま》に、一言なりと文句を言いに行こうか!」
 《神の衝立》を見つめながら、ルーン/アイシス/シーリスは明るく声を出した。

                                   つづく

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