果ての谷 始まりの地 〜ガラン異聞〜 
《イシリウスの章》#1 / #2 / #3 / #4 / #5 / #6 / #7 / #8 / #9 / #10[完結]  [上]に戻る

 突然、王が狂気に憑かれた。

 ある時、国内の巡視を兼ねた狩りから戻った王は、
「王国の北、《神の衝立》山脈の麓に、離宮を造営する」
という布令を出した。
 様々な職業の人々が集められ、王と共に《神の衝立》へと出立し、やがて、離宮の完成が報じられた…が、王と、僅かな側近を除き、誰一人として戻っては来なかった。

 離宮の完成と同時に、王国は不可侵の《壁》に包まれてしまった。
 その、脱出不可能な《壁》の内側で、人々は王の狂気に晒された。

 異様な雰囲気を漂わせる兵士たちが王国中に派遣され、王の命の下、人々を離宮へと連行し始める。
 離宮へと連れ去られた人々は、やはり誰も戻らなかった。

 ***

 ルーンとオーデは、エルフ族の結晶細工師として、同じ師匠の下で修行する兄弟弟子だった。
 師匠は、離宮造営の折に国王に同行して消息が途絶えた。
 王国が《壁》に囲まれて以降、ルーンの双子の妹であるアイシスを含めた三人は、兵士たちの目を逃れて移動する日々を続けていた。

「…一周、したのか」
 三人の前には、隣国へと続く道があった。そこは、三人が逃避行を始めた最初の日に通ろうとした場所だった。
 覚悟はしていたものの、改めて事実として確認させられてしまうと、絶望感が募ってゆく。
 オーデは《壁》から視線を外すと身体を回して、後ろに立ち尽くす二人を見つめた。ルーンもアイシスも、その表情は暗く、何日も続く逃避行に疲れ切った様子だった。
 一行は、王国を《壁》伝いに移動しながら、外に通じる道を探した。しかし、《壁》は完全に王国を封鎖していた。
 《壁》は、一見ほとんど透明だが、何物も通さない「何か」で出来ているらしい。それは地上だけでなく上空や地中にも存在し、《壁》の境界は、くっきりと線引きされている。
 そして。
「どうやら、この《壁》は縮んでいる」
「…縮んでる?」
 ルーンとアイシスの視線が《壁》の境界に向けられる。そこには、大人の足くらいの幅に溝が出来ていた。
「一日に、指先の爪くらいの長さだと思うが、《壁》の境界が、こちら側…つまり内側に移動している。それはつまり、縮んでいる、ということだと思う」
「どんどん逃げ場が無くなってくる、のか…」
 その、ルーンの呟きに、傍らのアイシスは言葉を重ねた。
「それどころじゃないでしょ。このまま《壁》が縮み続けたら、王国の全てが押し潰されて、そして…」
「全て、消えて無くなる」
 オーデが、非情な結論を口にした。
「それじゃ僕たちは」
 続く言葉は、ルーンの口を蔽ったアイシスの手に遮られ、発せられることはなかった。
 オーデとルーンの視線が、アイシスの視線を追う。
 三人は、通って来た森の奥から、何人かの兵士が近づいてくるらしい物音を聞いた。
 オーデは左右を見回すと、二人を手で促し、できるだけ音を立てないようにしながら、《壁》に沿って移動し始めた。

 兵士たちは、日没と同時に探索を中断し、近くの宿舎に戻って行くらしい。それが、三人が兵士たちの追跡から逃れ得ていた大きな理由だった。
 この日も、天空が闇に被われ始めると、兵士たちの気配は消えてゆき、三人は移動を止めることができた。

 その夜。
 三人は、枯れかけた小川の近くに、使われなくなって久しい小屋を見つけ、そこを一夜の宿とすることにした。
 オーデは川へ水汲みに、ルーンは薪にする小枝を拾いに行った。アイシスは、小屋の中の片づけをした後、夕食の準備をしようと、小屋の外に出た。
 重いはばたきの音が、アイシスの頭上から落ちて来た。

 ルーンの腕から力が抜け、集めていた枯れ枝が地面に落ちた。
 唐突に、巨大な不安が身体の芯から沸き出し、動悸が激しくなり、冷や汗が流れ落ちる。
「…アイシス?」
 音ではない音、声ではない声、アイシスの「心の叫び」を、ルーンは確かに聞いた、と思った。
 暗い夜の森の中を、ルーンは今来た方向へと、全速力で戻り始めた。

「ルーン?」
 水を満杯にした3つの革袋の重さに辟易しながら歩いていたオーデは、森から飛び出して来たルーンに声を掛けた。しかし、ルーンはオーデに気付くことなく、小屋のほうへと走り去った。
「アイシスに…何かあった?」
 ルーンの只事ではない様子に、オーデも後を追って駆け出した。

 オーデが廃小屋の前に到着したのとほぼ同時に、ルーンが小屋の中から飛び出して来た。
「アイシスがいない!」
 蒼白な顔で、ルーンはオーデの前を通り過ぎると、周囲を見まわし、息を吸い込んだ。
 オーデは慌ててルーンに駆け寄ると、大声を出そうと開けられたルーンの口に、右手で蓋をした。
「!?」
 大きく見開かれたルーンの目がオーデを凝視する。
「…兵士たちを呼び寄せるつもりか?」
 ルーンの目を見据えながら、オーデは右手を下ろした。
「アイシ…!!」
 叫び掛けたルーンの口を、再びオーデの右手が塞ぐ。
 ルーンは、顔の前に来たオーデの右手首を両手で掴むと、力一杯振り払った。
 よろけて地面に膝を突いたオーデを一瞥したルーンは、全身を怒りに震わせた。そして、無言でオーデに背を向けると、森の方へと駆け出した。
「ルーン!?」
 オーデは慌てて立ち上がると、ルーンの後を追った。

 森の木立の間に駆け込んだルーンは、素早く周囲を見渡すと、大きめの一本を選び、その影にしゃがみ込んだ。
 そのまま、ルーンが息を殺して身を潜めていると、少し離れた場所を、オーデが急ぎ足で通り過ぎて行った。
 オーデの後ろ姿を見つめながら、ルーンは静かに立ち上がった。
「ごめん、オーデ兄さん」
 ルーンは、アイシスを捜しに、王の離宮に行く決心をしていた。
「いっしょに行って欲しい、とは頼めないよね…」
 そして、ルーンは暗い森の中を歩き出した。

                                   つづく

 [上]に戻る