特撮・映画『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』東映 感想 ...last update 2003.09.28 [上]へ

特撮・監督:田崎竜太、脚本:井上敏樹『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』東映・感想

 以下の文章は、映画『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』東映 の感想を完全ネタバレで記述しています。
 ネタバレ不可な方は見ない方が良いと思います。
  鑑賞:2002/08/17,2002/08/22 

 カイザ・草加雅人の死は、サイガ・レオとの相討ちにして欲しかったかも、と。
 乾巧はオルフェノクではなくて欲しかった/園田真理がオルフェノクでは駄目だったのか、と。
 菊池啓太郎を灰化させずに生き延びさせたのなら、なぜ物語の途中で切り捨てるのか、と。
 スマートレディがいるのに蝶フェノクがザコで居るのに萎え、と。
 赤555が謎の小道具で起動したのに脱力、と。

 ひとり、またひとり、仲間たちは倒れ。
 最後の対決は、無二の親友同士の諍いであり。
 彼らが命を賭して護り、オルフェノクの指導者からは[人間の希望の象徴]と呼ばれた女性は、しかし一般のオルフェノクたちにとっては死すべき一人の人間でしかなく。
 あの世界を招来せしめたらしい存在/組織は、そこに生きる者たちに何も覚らせずに存続し。
 その場の危機的状況を切り抜けた二人は、しかし、どんな明日を目指せるのか。

 僅かなりとも希望があれば。
 しかし、二人だけで歩き出すことに、どんな希望を持てるだろうか。
 園田真理の希望を信じる、誰かを。
 木場勇治の夢を噛みしめる、誰かを。
 二人と共に歩こうとする誰かをこそ、最後の光景として描いて欲しかったと思うのは、この物語を損なう願いだろうか。
 水原は自業自得としても、草加雅人は寂しく散り、菊池啓太郎は物語から切り離され、長田結花と海堂直也は謀略に倒れ、木場勇治は絶望に身を委ね。
 人間を不要と断じる世界は、変わる素振りも見せず。
 孤高の超人は、ただ独り護りたい者の手を取って歩き去る。

 オルフェノクを支配し、変身ベルトを造り出し、人間を滅亡の淵に追いやる、何者かの声無き哄笑が聞こえるような。

 人間は二千余人…ではオルフェノクは何人なのか。
 木場勇治たちと人間たちは、対話する場を持っていた…では、指導者層ではない一般市民レベルのオルフェノクたちと木場勇治たちは、どんな関係を持っていたのか。
 冒頭の、ゲリラに無関心な、しかしカイザには怯える者たちを見、半ばの、指導者=スマートブレイン社長の意向に反発して木場勇治たちを殺そうとする者たちを見、最後の、処刑場に集い戦いに興奮する者たちを見る限り、オルフェノク側は、唯一木場勇治たち三人を除いて、その全員が人間との共存なぞ考えもしない、としか思えない。
 しかし、それならば木場勇治たちは、可能性のない絵空事に命を賭けていたのか。それは、あまりに救われない設定ではないだろうか。

 熱く激しい戦いの連続。しかし状況は何も変わらない…いや、悪化する一方にしか見えない。
 敵も味方も、結末としての死に違いはない。死は終わりであって始まりではなく、逝く者がその遺志を継ぐ者たちに託したとしても、失われるものに代わりは、ない。

 人間にとって絶望的な世界を徹底して提示しながら、しかし結末は不徹底に感じる。人間の絶滅まで明示しても良かったのではないか、とすら思う。その先に、それでも「夢」は残り受け継がれる、と示してくれれば。
 たとえば。
 僅かに仄めかされた[真の敵]の企てが一旦は成った、と見せて、乾巧と園田真理の残した「夢」…真555ギアとか、戦う者たちの伝説とか、岩に刻まれた「夢」の言葉とか…に共感する者(当然オルフェノク)が現われる光景を見せる、あるいは、その「夢」が見出される瞬間を示す、とか。

 2003/09/28 追記。
 913ギアは、この映画版では不要だったのではないか、と考えた。
 草加雅人は、乾巧の代わりに555ギア(=人のベルト…天のベルト、地のベルトと呼応させる意味で)を使って戦っていて、記憶喪失の乾巧を見出し…とか。
 913ギアと菊池啓太郎のエピソードは、ライオトルーパーの装備をTV版の913ギアに相当するものとして、誰でも起動できるけれど人間が起動させると使用中や使用後に必ず死亡する、として。


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